こんな人はお天道さまの前でも真実を言うまい
あえて「こんな人」という言葉を使う。
「こんな人」とは柳瀬唯夫元首相秘書官のことである。
国会中継を聴いていたが、のらりくらりと答弁する柳瀬氏に言いようのない怒りを覚えた。
国会で誰が何を問い、何を答えようと我々国民にはすぐさま影響はない。
しかし、この数年間の国会の答弁において、安倍首相をはじめとして閣僚や官僚の言動を見ていると、本当に日本という国とそこで生活している国民のことを考えて発言し、行動しているのかと疑問に思う。
ある新聞は安倍政権を「過去にないウソつき政権」と表題に挙げている。
安倍首相に寵愛(!)されている柳瀬氏は東京大学法学部卒であるが、このような高学歴者はどんな時でも正しい行動をするという先入観を持つ風潮があるが大きな間違いである。
以前のブログで、私の友人でその後ストレートに東大に入学した者の高校時代の奇行について記した。
彼も頭の回転は周囲も驚くほど速かった。
しかし、それは得意とする分野に限られており、それを外れると極端に普通の人たちと変わらなかった。
いやむしろ劣っていたかもしれない。
受験競争という分野においてのみ、彼は誰もが認める秀才ぶりを発揮したのである。
人間同士(たとえば優秀と言われるお隣さんと普通の自分)の遺伝子の違いはたったの0.1%である。
下等動物と言われるネズミでも人間との遺伝子の違いはわずか3%だ。
東大卒、東大卒とテレビでも盛んにコメンテーターの経歴を前面に出して、いかにその人物の発言が正しく、まともなものであるかを強調しようとしているが、この10日の柳瀬氏の答弁を聴き、以前の言動と照らし合わせれば、たとえ高学歴者であっても、思考回路は我々凡人とさして変わらぬことに気づいたことだろう。
このような高学歴の人たちに共通することは、一つのことに集中しすぎて周囲が見えなくなることである。
ルース・ベネディクトは、日本人が怖いのは、欧米人のような神や仏でなく、他人の目や他人の口であるとしている。
今までの日本人は、他人に笑われたくない、恥をかきたくないということで自分の行動を規定していた。
日本では文化の違いから神や仏が普段の生活で語られることはほとんどない。
しかし、ひと昔は子供が悪いことをしようとすると、親などが「お天道様が見ているぞ」と言っていたことでもわかるとおり、子供の無謀な行動を規制することはあった。
「恥」という言葉が理解しにくい子供に対して、神や仏の代わりに「お天道様」を使っていたのである。
日本人の「恥」の文化は、人情を大切にしたり義理や名誉を重んじる反面、狡い、功利的な生き方をするマイナスの面がある。
神とか正義とか良心を絶対的な生き方の拠り所にする欧米人からすると、日本人のこの狡い、功利的な生き方は理解されないだろう。
最近、日本人の「恥の文化」は急速に失われてきたように思える。
「武士は喰わねど高楊枝」
「恥を見んよりは死をせよ」
「人は一代、名は末代」
など、いろいろ誤解を受けるような戦前戦中の言葉であるが、良くも悪くもそれは私たち日本人の心の中に少なからず残っているはずである。
柳瀬唯夫元首相秘書官の「記憶の限り、会ったことはありません」など都合の良い記憶喪失、どちらともとれるあいまいな表現、「・・・だとしたら」と相手の判断に問題があるような言い訳、恥はどこにいった。
こんな答弁、もうたくさんである。
「過去にないウソつき政権」
という言葉が頭に浮かぶ。
先の世論調査で、安倍政権を支持する理由の一つとして「ほかの人よりマシ」という項目があった。
しかし、安倍政権が目指す日本の方角には危ういものが感じられる。
今、ポスト安倍に関して主だった人たちが動き出しているという。
これらの人たちを「安倍首相よりマシ」と言ったら失礼だろうか。