外国人観光客は増えさえすればいいのか

イメージ 1
京都・嵐山

 タレントのマツコ・デラックスが12日放送のTOKYO MXの番組で、最近の京都は「観光客が増えすぎてふらっと行けない」「昔から落ち着いたイメージがない」「外国人が増えたからといって京都が変わっちゃったっていうのは、筋違いだと思う」などと厳しい意見を述べたという。

 これに対してコメンテーターの若林史江(41)が「観光立国を目指すという発想自体が違うのかも」「観光に来た外国人がお金をたくさん使ってくれる」などと発言したらしい。

イメージ 2
京都・三室戸寺

 私も最近の京都には昔ほど行きたいとは思わなくなった。

 というのも、京都の有名な観光地はどこへ行っても多くの外国人観光客で埋め尽くされていて、心の癒しに来たつもりが逆に疲労困憊で帰路に就く羽目になることがたびたびあるからである。

イメージ 3
京都・嵐山

 確かに観光地で商売を営む人たちにとって、お金を使ってくれるのなら日本人であろうと外国人であろうと大歓迎なのだろう。

 ずっと以前(2,30年前)の京都には現在と同じように多くの観光客が訪れていた。

 その時は京都を訪れて観光途中で疲労困憊してしまうということはなかった。 
 せいぜい帰路の車中で快い疲れがあったくらいだった。

 それは当時の観光客の多くは日本人が占めていたからである。
 外国人観光客はほんの数えるほどしか見かけなかった。

イメージ 4
京都・三室戸寺

 京都を訪れて次第に疲れを覚えるようになったのは、外国人観光客を多く見かけるようになった数年前からで、それは私の疲れ具合と見事に比例している。

 なぜなのか。

 おそらく昔の京都にあった「わび」「さび」などの雰囲気が観光地から次第に失われてきたことと関係があるように思う。

イメージ 5
京都・三室戸寺

 日本という国で四季の自然とともに心の中に育まれた日本人特有の「わび」や「さび」というものが外国人に理解されるのは難しいかもしれない。

 日本の観光地は、この日本人特有の「わび」「さび」という精神を通して維持されてきた。そしてまたそこを訪れる日本人観光客もおのずとその精神を受け入れて振舞ってきた。

 それはただ単に自然の美しさとか、神社仏閣の建物の素晴らしさなどではなく、その観光地に昔から漂う神秘的な雰囲気を感じてきたのである。

イメージ 6

 京都だけでなく、最近の観光地を訪れると外国人観光客の多さもさることながら、時々聞こえる嬌声や場違いな行動がせっかくの雰囲気を台無しにしている。

 文化の違いや国民性にその原因を求めるのは酷だろうか。

イメージ 8
京都・三室戸寺

 郷に入れば郷に従え、までとは言わない。

 しかし、訪問国に関するある程度の予備知識は求められて当然だろう。

 だからといって外国人観光客を増やすことだけにこのまま猛進すれば、日本の観光地の良さは徐々に失われてしまうかもしれない。

イメージ 9
京都・嵐山

 上記の番組では最近の京都の観光地の様子を「レンタル着物に着替えた外国人や若者たちが、まるでハロウィーンのコスプレのように見える」とまで言っている。

イメージ 7
京都・嵐山
 
 もう一度問いたい。
 
 外国人観光客がお金をたくさん使ってくれればそれでいいのだろうか。

 多くの外国人観光客で賑わっている観光地を目にすると、これほどまでして日本に来てくれるという喜ばしい気持ちと同時に、一方では未来へ残さなければならない日本の文化や風習がお金によって買い占められ、捨て去られていくような感じもするのである。

 日本という国には金銭に代えられないものがあるということを、今一度思い起こすべきではないだろうか。