どうしても今夏の東京五輪開催の意義を見つけ出せない

 ここ数日、東京五輪に参加するため外国の選手団が来日してきているその模様をテレビは淡々と流している。

 

 その選手団の人たちの顔を眺めると、笑顔ではあるが何か緊張しているような表情も垣間見える。

  幾人かの選手は無理して笑顔を作っているようにも思えてならない。

 

 それを見ていると、私たちは笑顔で迎え入れなければならないのに、同じように緊張してしまう。

 なぜだろう?

 

 57年前の10月に東京オリンピックが開催されたとき、日本の土を踏んだ外国選手は底抜けに明るい表情だったように思う。

 

 当時、白黒テレビはともかく、カラーテレビはまだ各家庭に充分行き渡っていない頃で、下宿していた私の部屋にはテレビは無く、翌日下宿していた主人から朝刊を見せてもらい、そこで来日した選手の顔を初めて見たのだった。

 そして選手たちのあふれるような喜びが紙面の写真から伝わってきたことを覚えている。

 

 それから約半世紀、今度は液晶カラーテレビで成田空港に降り立った外国選手団を見たが、昔私が感じた同じものは伝わってこなかった。

 

 世界が新型コロナのパンデミックに襲われ、いまだ収束する気配が見られないという中で開催されようとする五輪の選手としてコロナ禍の日本に来たというのが大きな理由であろう。

 

 そして迎えなければならない私の方にも原因があり、それは今度の東京五輪に関して悶々とした以下のような疑問があるからなのかもしれない。

 

なりふり構わぬ大会組織委員会朝令暮改


 ついこの間、東京五輪・パラ大会組織委員会が競技会場での酒類の提供を認める検討をしていると発表したかと思ったら、一転して酒類の提供はしないことを示した。

 

 このコロナ禍で国民には公の場での酒類提供の自粛が強いられているのに、たとえ五輪と言えどその枠から外れて良いということがあってはなるまい。

 それを組織委員会は、五輪は特別だとか何とか言って酒類を競技場で提供する方針を打ち出していた。


 案の定、酒類の提供は多くの批判を浴び、組織委員会酒類の提供を一転断念した。

 最初から分かりきっていることを「うまくいけば・・」とアドバルーンを上げて国民の反応をみる手法は止めないか。

 

観客有りか、無観客か


 このコロナ禍で五輪開催となったらできるだけ人の流れを抑えることが重要だろう。

 大会組織委員会は最初、五者協議で五輪開会式の入場者数を一般観客数とは別に特別枠を設けて計2万人にする案を提出した。

 

f:id:gnokarakuchi:20210629111730j:plain

      その後、別枠の具体的な数字は検討中ということになった
       (2021年6月22日 ABCテレビ「羽鳥モーニングショー」より)

 

 それによると五輪開会式の観客1万人のほかに別枠の入場者数を1万人とし、計2万人として認めようとしているのだ。

 この別枠に含まれる入場者とは大会関係者とはスポンサー関係やIOCなどの関係者であるという。
 もっと平たく言えばIOC関係者とはIOC貴族と言われる者やその家族なども含むと思われる。

 

 さらに驚くのは、組織委員会が設定している特別枠は開会式だけでないということである。
 五輪の他の競技施設でも一般客以外に特別枠としての入場者数を設定しようとしている。

 

 しかし組織委員会はこのごろ、この別枠の入場者数についてはあまり触れなくなった。
 批判を恐れて特別枠の数字を言いづらくなったのか。

 

 このコロナ禍でもし開催するとしたら「無観客」が望ましいという提言があるなか、政府・都・大会組織委員会はその言葉を口にすることを避けているようにみえる。

 

f:id:gnokarakuchi:20210629112242j:plain

          組織委は無観客にするつもりはないらしい

       (2021年6月22日 ABCテレビ「羽鳥モーニングショー」より)

 

 橋本組織委会長は24日、5者協議の共同ステートメント
 1.すべての会場で観客の上限を50%以内で1万人とする
 2.7月12日以降に緊急事態宣言とまん延防止措置が発動されたら無観客も含め対応

  する
 とは言っているが無観客を確約したものではない。

 

 組織委の今までの言動について、一部にはこういう声もある。

 

     f:id:gnokarakuchi:20210629112651j:plain

       (2021年6月22日 ABCテレビ「羽鳥モーニングショー」より)

 

 五輪開催中に新型コロナ第5波の可能性もある中、競技施設での無観客という選択肢はますます現実味を帯びてきたというのに・・・。

 

本当に機能しているのか「バブル方式」


 バブルと言っても景気の話ではない。
 東京五輪で入国した選手団らが日本国民と接触することを避けるために入国した人を隔離する水際対策の一環を指している。

 

 19日に来日したウガンダの選手団のうちの2人がインド型デルタ株に感染していることがわかったが、1人は成田空港で感染が判明し、その感染者を除いた残り8人は濃厚接触者という判定もされずに入国してそのままバスで大阪の泉佐野市へ向かい、入国5日後にその中の1人が感染していることがわかった。そしてこの選手団と行動を共にした泉佐野市の職員は濃厚接触者として自宅待機となった。

 

f:id:gnokarakuchi:20210629113217j:plain

 今までに来日した選手団の感染者は今までに6人、うち2人はインド株デルタ型

       (2021年6月25日 ABCテレビ「羽鳥モーニングショー」より)

 

 このことで空港で残り8人の選手に対して濃厚接触者の判断をしていなかったこと、そしてその判断をどこが行うかを明確にしていなかったことがわかった。

 

 菅首相らは盛んに「動線分離を徹底させる」と言っていたが、穴空きだらけのバブル方式、これは一体何なんだと思ってしまう。

 

   f:id:gnokarakuchi:20210629112951j:plain

         菅首相はこのように言っているが実態は・・・

       (2021年6月25日 ABCテレビ「羽鳥モーニングショー」より)

 

 ウガンダ選手団の件があったからか、成田空港検疫所は27日、五輪関係者と一般客の動線を分ける方針を固めたという。また濃厚接触者の特定・隔離などは到着空港で行うことになったらしい。

 しかし今頃になってこんな基本的なことを決めるなんて驚いてしまう。

 

 政府や組織委員会は新型ウイルス感染予防のために厳しい入国審査をするとは口にはするが、こんなズサンな入国審査で国内にウイルスを持ち込まれてはたまらない。

 

 新型コロナの感染拡大を阻止するためにはまず「人流」を絶つというのが大原則であるのに、この頃の政府や組織委員会のやることなすことはこの「人流阻止」に逆らっているように思えてならない。

 

 さらに看過できないことがある。

 

 それは東京五輪「プレーブック」の事である。

 東京五輪「プレーブック」の第三版に記載されている内容で、五輪関係者・メディアなどに携わる5万人超の人たちについて、食事は会場内や宿泊先の食堂やレストランあるいはホテルなどの自室内で摂ることとしているが、それが不可能な場合はコンビニやテイクアウトの店で食べ物を買うことができ、あるいはレストランの個室を利用することもできると明記していることである。

 

 言い訳がましく「組織委員会が示した施設」といかにもバブル方式で厳選した店のように表現しているが、なんてことはない実際は街中にある普通の店を指している。

 

 表向きには、飲食は会場内や宿泊先と限定しておきながら、一方ではそれが不可能ならば街中のコンビニやテイクアウト店で買い物してもいいですよ、と言っているのだ。

 

 さらに組織委員会の水際対策の文書には、海外メディア関係者が到着後隔離0日を希望する場合の理由の例文が載っていて、それを書けば隔離が免除されるようになっている。
 このような文面にすれば隔離はしませんよ、とわざわざ裏の手を教えているのである。

 

f:id:gnokarakuchi:20210629101626j:plain

f:id:gnokarakuchi:20210629101736j:plain

    入国直後から活動するので隔離0日を希望する場合の組織委の例文

 

f:id:gnokarakuchi:20210629101154j:plain

           組織委の英語の例文と通信社の書面

        (いずれも 2021年6月12日 MBSテレビ「報道特集」より)

 

 実際ある通信社が、一言一句まったく同じ文面を提出して隔離が免除されている。
 この件について、組織委は「精査中」と答え、当該の通信社は「機密事項なので答えられない」と返答している。

 

 いくら厳しい水際対策を示しても、一方ではこのようにザル法に近い運用をしていれば水際対策など無いのと同じである。

 

 

 もしパンデミックという状況でないオリンピック・パラリンピックの開催であるならば歓迎できない理由などどこにもありはしない。

 

 しかし、世界中が新型コロナのパンデミックに見舞われ、開催地である東京も第5波に襲われようとしている今、東京五輪・パラの開催意義を見つけ出すことができないのは当然なことではないだろうか。