こんな安倍政権に日本を任せていいのか
皆さんは今年の年賀状の名簿をもう捨てましたか?
今年も残りひと月を割って、新年の年賀状を準備する時期になった。
私は毎年いただいた年賀状の友人の名簿を一覧にして、翌年の年賀状を作成する場合に利用している。
もちろん引っ越しをしたとか、喪中で欠礼した人や本人が他界した情報なども一覧表に記している。
中には本年限りで新年のご挨拶を遠慮させていただくという少々残念な情報もある。
そういう時でも寒中見舞いや暑中見舞いに活用することがある。
私はこのような情報を含んだ一覧表を最短でも3年間は保管している。
年賀状を作り終え、投函したからといってすぐにその名簿を破棄するような無茶なことは一個人の私でさえやらない。
年賀状のあて名書きをするときに名簿の一覧は私にとって必要不可欠なのである。
名簿というものは事程左様に重要なものである。
同じように、いやそれ以上に公文書の性格を帯びた「桜を見る会」の招待者名簿のデータがいとも簡単に破棄され、消去されたということが今でも信じられない。
「桜を見る会」の招待者の名簿をシュレッダーにかけ、電子データも消去したと恥も外聞もなく言う政府の態度には憤りを覚える。
1957年の岸信介内閣の時の「桜を見る会」の招待者の名簿は今でも国立公文書館に所蔵されているのである。
岸内閣の時の「桜を見る会」の招待者名簿は国立公文書館に所蔵されている
(2019年12月3日 ABCテレビ「羽鳥モーニングショー」より)
その時の招待者は1749人で今年の招待者数と比べるとおよそ10分の1である。
当時が手書きであったことと比べると現在は電子機器によって名簿など、たとえ膨大なデータなどであっても容易に作成、管理できるのである。
半面、それらの資料をコントロールするのも容易であるというリスクもある。
紙に印刷された情報はシュレッダーにかけ、焼却すると何も残らない。
残るのは灰だけである。
一方、サーバなど電子機器に記録されたデータはその使用目的から容易に完全消去されないようになっている。
一般にいう消去は、データの見出しやデータアドレスを消しているだけに過ぎないからである。
内容はそっくりそのまま残っている。
簡単な例を示す。
パソコンなどで不要なデータを消去してみるがいい。
ソフトによっては最近扱ったデータとして表示されていることがあるのだ。
そのデータをクリックすると削除したはずのデータが再び表示される。
たとえ削除やフォーマットをおこなったとしても、それは部分的であり、プロの手にかかれば復元できることもある。
データを100%復元できなくするためにはサーバなどに高熱を加えたり、裁断するという物理的破壊が求められるのである。
電子的記録というのは、都合が悪くなればキーボード上で削除・消去が簡単にできるというのがメリットであるが、誤ってはならないのはこの操作が完全な削除・消去ではないということである。
安倍首相がコンピューターのサーバに記録された「招待者の名簿の復元はできないと聞いている」と盛んに言うが、「聞いている」と言うだけで「確認」とは言わない。
(2019年12月3日 ABCテレビ「羽鳥モーニングショー」より)
本当に再現できないことをチェックしたならば「確認」と言うべきだろう。
この言葉を使うと後日復元されたときに逃げ道が無くなることを恐れたのだろう。
安倍政権が自分たちにとって都合の良い部分だけは残し、都合の悪い部分は葬り去ることを厭わないとすれば、これほど日本の政治をゆがめてしまった最悪の政権は今まで無かったと言えるだろう。