東京都議会のこの狭量な人々
狭量な人々
小池百合子新東京都知事が都議会のあいさつ回りをしたとき、都議会自民党室で出迎えたのはそっけない態度をする高橋信博総務会長ら2人だけ。それも「たまたまここにいただけで・・・」と、まるで子供のような言い訳をするその態度を見てあきれたものだ。
いくら対立候補であったとしても、新知事に対するこれらの対応は先進国家といわ
れた(今もそうかは?)首都の都議会がとるべき態度ではあるまい。
まるで未開の地に住む、種族の勢力争いの末に敗れた、種族長の悪あがきのようにも見えてしまう。
どの国から見ても、近代国家であろうと評される日本という国で、そしてその首都で
ある東京都で、今でもこんな低次元の嫌がらせが、それも記者団がいる目の前で行われたことに吐き気をもよおした。
礼節のことも深くは知らない私でさえ、ポーズをとろうとしていた相手のことを考えれば、たとえつくり笑いであっても写真におさまっていただろう。それがこのような
場合における日本人の礼節である。
こういうことを見聞きすると次の話を思い出す。
それは日本では考えられないほど熾烈なものだという。
たとえば選挙に負けた政党は、明け渡す室の備品を一晩でひとつ残らず運び去ってしまうそうだ。
もともと備わっている物まで。たとえば本棚や机や椅子、照明まで取り外してしまうのだ。
負けた腹いせにやるのだが、やることはダイナミックで時間が過ぎればあっけカランとしている。
そのことで互いがいつまでも根に持つことはないという。
私はこれを聞いたとき、あの文明国家のアメリカでさえそんなことをやるのかと驚いたが、日本のように陰湿な個人攻撃はあまりないという。
特定個人への攻撃はあくまでもその人の政策や行動を対象としているという。
姑、いや舅の嫁いびりのような、なにかひと昔前の日本の暗い家庭をのぞいているような気がしたものである。
ドン
「ドン」とはイタリア語で男性の敬称だという。「権力者」と言う意味で「ボス」よりも強い意味があるという。
そんな「ドン」が東京都議連にもいるらしい。
太平洋戦争が終わって、昭和20年末から30年代は戦争の痛手が薄らいで、国民のあいだではようやく生きるための衣食の心配が薄れたころである。
そのころ、地方の市町村議会では一部の議員が大きな顔をして町中をうろつき、あらゆる方法を使って権力を手にしていった。
いわゆる議会のドンである。
ドンに歯向かう者は村八分に遭うか、嫌がらせを受けた。だからドンのやり方がどんなに理不尽でも、誰も声を上げることが出来なかった。
あれからもう何十年も経った。
しかし、同じような構図が今でも近代都市といわれる首都の都議会に見られること自体がおどろきである。
オリンピックと利権
昭和39年(1964年)に東京オリンピックが開催された。
この年はオリンピックの会場建設や東海道新幹線工事などによって、巨大な利権が多くのドンに集中した。
東京だけに限らず、地方の議会のドンにも少なからずその恩恵がもたらされた。
大きな事業が起きると必ずや利権が生まれる。その利権が最終的に国民に還元されるならまだいい。
それが特定の団体や人物に集中して、権力に使われることが問題である。
の改革に本気に取り組むならば、都民だけに限らず、多くの国民の共感を得られるだろう。
それまでは東京都議会に興味もなかったし、わが身に関係のないことだと無関心だった。
東京都民でないことも無関心を誘った一因である。
しかし今は東京都議会の動向が一番の関心事になった。
内閣改造のこと
さて、話はがらりと変わるが内閣改造のことである。
このことを聞いて、これは小池新都知事に対する「あてつけ」ではないのかと思った。
はたして私だけだろうか。