カジノ法案は日本国民を滅ぼす
まだバブル期の影響が残っていた数十年前、私の住んでいた町では宅地開発で大きなニュータウンができた。
人口の増加を見込んで、あるスーパー店がニュータウンの周辺に出来た。
まだあちこち田んぼの残る風景の中に場違いなこのスーパー店は開店してから最初の5、6年は売り上げが順調だった。
しかし、より便利なニュータウンの中にライバルの大型店が出来たり、コンビニ店が次々と現れてスーパー店の客足は鈍くなってきた。
何を考えたか、そのスーパー店は建物の一部の造作を取り壊し、そこにパチンコ店を誘致する計画を立てた。
もちろん周辺の一部の住民は治安が悪くなる恐れがあるということで誘致に反対した。
パチンコ店の誘致は税増収を期待した町が後押ししたこともあって、住民の反対運動は実を結ばなかった。
スーパー店の建物の一角にパチンコ店が出来て、しばらくの間は物珍しさもあってスーパー店の売り上げは一時的に延びた。
数ヶ月するとスーパー店を訪れる客層に変化が現れた。
今まで親と一緒に訪れた子供たちがめっきり減った。同時にスーパー内の飲食店や衣料品店に親子の姿が見られなくなった。
目にするのは、長時間のパチンコで疲れた大人たちがコーヒーをすする呆けたような顔の人たちや、目的も無く店内をぶらつく人たちばかりである。
朝から昼飯抜きで金属の小さな玉を血走った目で追い続けたそれらの人たちのポケットにはコーヒーを飲むお金しか残っていなかったようである。
このような光景を目にした日からスーパー店で買い物をする親子の姿はほとんど見られなくなった。
子供たちの繊細な神経が一番最初にそれを感じた。
そのスーパー店に親と一緒に行くことを嫌がった。
子供たちは殺伐としたいやな空気に触れて本能的にそれから逃れようとしたのである。
ついで親たちがそのことに気付き始めた。
スーパー店の中のまばらな客を見ると疲れた顔をしている人が多くなった。
こんな光景を子供たちに見せたくない。
子供と一緒に買い物をしたい親は少し遠くになるが他の大型店に行くようになった。
パチンコという娯楽を私は批判しているのではない。
パチンコは少しのお金で冒険心を満たすささやかな娯楽だと思っている。
その点ではパチンコ店は非難の的にすべきでないだろう。
それに多くの人たちがパチンコで財を成したいとは思っていないだろう。
ただ残念なことに、生活費をすべてパチンコ代に回してしまう者がいることも確かである。
パチンコで持ち金を少し増やして、スーパー店で高級肉を買おう、と考えていた人がすべてを失って何も手にせず家路につく姿を何度見たことだろう。
家族には、スーパー店に食料品を買いに行く、と言いながらパチンコ店へ直行する。
何しろ同じ方向、同じ場所にどちらもあるのだから。
こうして日が経つにつれてパチンコ店は客が多くなったが、半比例してスーパー店の客は少なくなった。
パチンコで大半のお金をすってしまい、わずかな金を残して食料品を買いに来た人もいる。
こういう人はまだいい。
問題はパチンコですってんてんになった人たちである。
この人たちはスーパー店内の広場のベンチを独り占めにして、残り一日の大半をそこで過ごしている。
そしてスーパー店の閉店時間になってようやく腰を上げる。
パチンコ店の客は必ずしもスーパー店の客とはならないのである。
人の心を蝕んでいくギャンブル依存症の典型的な初期状態である。
スーパー店はその後オーナーが二度変わり、そして最後の店が今年のはじめにとうとう閉店した。
客足が遠のいた同じ建物内にある専門店は次々と店を閉め、現在数店あるだけである。
そしてパチンコ店はというと、今年半ばに店を閉じた。
パチンコ店が閉まった後、一度だけこの建物を覗いたことがある。
かって生鮮食料品を置いていた広いスペースは薄暗い空間が占めていた。
その片隅でいまだに営業をしている専門店はテナント料を払えるのだろうかと人事ながら気になった。
維持費が大変なのだろう全館のエアコンは稼動せず、それらの店では扇風機を回していた。
建物の中は湿気が多いのか、むっとする暑さで汗が噴出した。
このような末路をたどったスーパー店は特殊な例だろうか。
売り上げが落ちたスーパー店ではどうにかして売り上げを伸ばそうといろいろ考えたことだろう。
しかしなぜパチンコ店を誘致すれば客足が戻ってくる、と考えたのだろうか。
スーパー店とそしてパチンコ店がターゲットとする客層はそれぞれ根本から違うことになぜ気付かなかったのだろうか。
同じように間違った発想でカジノ法案を今国会で成立させようとしている人たちがいる。
カジノ法案が実施されたときに実際どのような負の影響が生じるのか、十分検討もされずに成立を急ごうとしている。
なぜなのか?
カジノはれっきとした賭博である。
賭博はそれにはまると抜け出せない薬物中毒のようなものである。
日本の風土に賭博というものはそぐわない。
農耕民族の精神はギャンブル依存症に対してあまりにも無防備である。
それはヨーロッパ人のような狩猟民族と違い、農耕民族は命を懸けて食料を獲得する経験をしていないからである。
そんな柔(やわ)な精神に賭け事の少しの興奮でさえも、脳細胞の奥深くに忘れがたい快楽の記憶を残す。
しかし華々しい施設のネオンだけでなく、周辺に住む住民の視線でその裏実態を詳しく調べるといい。
ギャンブル依存症や治安の問題によって住民の生活にも不安が増大してきているという。
賭博という賭け事を国が認めれば、野球賭博などもそのうち認めるようになるかもしれない。
いくら地域限定といっても、国が推し勧める法というものは類似の法が日本国内に存在すれば、それらも肯定されたものとして人々の間に拡散していくものである。
カジノは良くて野球賭博は駄目という論理は通らないだろう。
それより何より、このような賭け事事業で地方の経済や、ましてや国の経済の建て直しを図るという発想そのものが貧困であり、誤りである。
それでもカジノで地域経済を活性化させるという人がいる。
テーマパークにカジノを誘致させようと目論んでいる政治家が居る。
たとえ広大な敷地でカジノ施設とリゾート施設が数キロ離れていようとも、そういう場所に家族や子供、孫を絶対連れて行くものか。
近寄りたくもない。
何度でも言うが、カジノ事業のターゲットとリゾート地でお金を使う人は別であるということだ。
賭け事をしたくてやってくる人がリゾート地のレストランでうまい料理を食べたり、高級な土産店でお金を落としてくれるだろうか?
もしそういう金があったならそれはすべて賭け事に使ってしまうだろう。
なぜこのような法案の成立を急ぐのか。
私にはあることが気になってしょうがない。
そのためにカジノ法案の成立を急ぐのか。一部の識者はそれについて少しだけれども触れている。
これについては後日、述べてみる。
一度はまるとなかなか抜け出せない性(さが)が農耕民族にあるということを、政治家は今一度肝に銘じてほしい。