森友学園の幼稚園で行われていることは一種の犯罪的洗脳
国有地の大幅な値引き販売で疑惑の渦中にある森友学園が経営する塚本幼稚園で、驚くべきことが行われていることがわかった。
保護者が撮ったというその幼稚園の運動会の様子を見てみると、まるで戦時中に行われた日本の学校と同じ雰囲気だ。
現に、現在の教育基本法に反するのではないかともいわれているが、このような教育が今だに日本で行われていることが信じられない。
過去に犯したことをまた繰り返すのか。
このような教育をすれば将来どんな影響を日本にもたらすか、私の両親が経験したことを踏まえて私は強く訴えたい。
それは昭和4年(1929年)11月で、そのとき私はまだ生まれていない。
その後、現地で生を受けたが幼い記憶に書き記すまでの鮮明さはない。
以下は、後日ことあるごとに両親から聞かされた話である。
住んでいた大連の旅順という所の冬は毎日氷点下十度前後にもなる地だった。
冬は厳しいけれど夏は旅順港に沈む夕日がこの世のものとは思われないほど美しかった。
そういうところに私たち家族は昭和22年2月に引き揚げるまで8年間過ごした。
日本が戦争に負けそうである、あるいは負けたということは下級役人だった父はもちろん、そこに住んでいた多くの一般の日本人は知らなかった。
現地の日本人には敗戦の直前まで勇ましい戦況だけが知らされていたのである。
昭和20年(1945年)8月15日の敗戦日の数ヶ月前から、役人や軍人の幹部が家族を引き連れて引越しをする光景があちこちで見られた。
ほかの人がそれらの人たちに訳を聞くと口を濁して、はっきりとしたことはわからなかった。
多くの日本人は、日本が戦争に負けたということは現地の人から聞いて初めて知った。
私たちを含め多くの日本人が異国の地に取り残されたのだ。
数ヶ月前から引越しと称して街を離れた役人や軍の幹部は、実は汽車を乗り継いで釜山に行き、早々と日本へ逃げ帰っていたのである。
敗戦と知って、旅順の駅や港は祖国へ帰るたくさんの日本人で身動きが取れなかったという。
しかし混乱で汽車も船もしばらく動かなかった。
そういう中で、今まで抑圧されていた現地の人たちの冷たい視線を浴びる日本人もいたが、現地の人たちの多くは日本人に対して暖かい手を差し伸べてくれた。
汽車が動くまで、船が出るまでと今しばらくとどまる人も居た。しかしその時間は余りにも長かった。
その間に怒涛のようにソ連兵が大連の街にもやってきた。
ソ連兵は最初のときこそ軍の規律に沿った動きを見せていたが、数日経つといろいろな噂が耳に入ってきた。
夜中にソ連兵が日本人の家に入ってきて、あらいざらい家財を盗んでいった。
家族の若い娘が両親の目の前で乱暴された。
腕時計をしていた父親がソ連兵に手首ごと切り落とされて腕時計を奪われた、等々。
こういうことだけでなく現地の日本人は食べるものにも困っていた。
多くの人が懇意にしていた現地の人から食べるものを融通してもらっていた。
現地の人の多くが対価こそ要求しなかったけれど、そういう親切に負担を感じて幼児や子供を現地の人に預けてしまう日本人もいた。その数は数十人や数百人にとどまらなかった。
生死のふち際だった状況を考えると苦渋の決断だったろう。
ソ連兵が襲ってくる。そういう恐怖におびえる夜が何日も続いた。
そういうことに耐えられなくて、手に持てるだけの生活用品を持ってピョンヤンやソウルや釜山へと徒歩で向かう家族もいた。
途中でソ連兵や盗賊に出会えば命はない。それでも徒歩で南へ向かう家族は後を絶たなかった。
父が苦労して手にした 大連港から舞鶴港への「引揚許可通知書」
家族の名はすべて変えている
私たち家族が「引揚許可通知書」というものを手にし、大連港から日本の舞鶴港に引揚げてきたのは昭和22年(1947年)2月27日である。
この「引揚許可通知書」を手に入れるため、父は血の滲むような苦労したという。
警察関係の仕事をしていたとソ連兵に知られたならば、シベリヤ送りは免れないだろう。
そこで父は家族全員の名前を変えた。
過去に存在しなかった名前を家族に付けて「引揚許可通知書」の申請をしたのである。
たとえ敗戦時の混乱した異国の地のことであったとしても、こんなことが容易にできるとは思われない。
もしばれたなら一発で父はシベリヤ送り、家族は現地の収容所に送られていただろう。
幸いにもそういう結果にならなかった。そこには現地の人の計り知れない協力があったのである。
舞鶴へ向かう引揚船の中でも悲劇は終わらなかった。
すし詰めの船内で毛布に包まれて息絶えた人が何人もいた。
多くが栄養不足による疾患で重篤な伝染病に罹っていた人もいた。
やっと帰国できるという安堵感で今までの張り詰めた気持ちが緩み、死を早めたのであろうか。
懐かしい祖国の山々が見えたとき、おそらく時期的に雪を冠した山々であったろう、誰もが声をあげたという。
舞鶴の港に入って、すぐにでも上陸できると思っていたがそうではなかった。
何日か経ってようやく祖国の地を踏むことができたが、両親はそれを覚えていないという。
上陸を待ちきれず、その間に船内で死亡する人がかなりいたらしい。
上陸のときは真っ白い粉を体の隅々までふりかけられた。ノミ、シラミなどの殺虫剤、DDTである。
私たちが蒸気機関車の吐き出す煙に咽びながら郷里に向かうとき、家族それぞれが持っていたのは自分たちの命だけだった。
敗戦後の2年間、混乱した異国の地で家族は誰一人欠けることなく全員が日本の地を踏んだ。
これも現地の人たちの暖かい助けがあったからと今も思っている。
後日、父はよく言っていた。
「戦争というものは人間の欲望が起こすものだ。悲しいことに、今は戦争の現場を知らない人たちが政治を操っている。そういう人は戦争という言葉を口にしない。するのは愛国心という言葉だけである。愛国心は必ずしも悪いとは思わない。悪いのはその言葉を使って他国をないがしろにすることだ。私は、よその国へ行って、それなりに現地の人たちのために努力したと思っているが、それは逆の立場になって考えれば、独りよがりの何ものでもなかったのかもしれない」
父はそれでも日曜祭日には欠かさず、玄関先に日の丸の国旗を揚げていた。
近所で日の丸の国旗を揚げるのは私の家以外に数軒ほどだった。
経験がないということは、華やかな表の顔の裏に隠れている悲惨な状況を思い計ることができないということだ。
それを良いことに、まだ社会経験が少ない幼い人間に対して、愛国心がどうの、政治がどうのと教え込むことは戦前の好戦教育と同じである。
森友学園が礼儀作法という一見良識的にみえるしつけの面だけをクローズアップして、その裏に戦前、戦時中と変わりない教育を、まだ年端も行かない幼稚園児に行うのは一種の洗脳で、将来の日本に対する犯罪と言えるのではないか。
父は30数年前に他界した。
母は、父の7回忌に当たる日に旅立った。
父母の名が刻まれた墓石には同じ月、同じ日が刻み込まれている。