日本はどこに向かっているのか~父の日記に書かれていたこと(1)



 森友学園問題は単なる国会の論争の場から ひょっとすると日本の政治の在り方を左右してしまう論争に発展するかもしれない。

 これは今回の森友学園とは別に、日本の国有地の売却において、いわゆる極端な国粋主義的内容の教育を実施している、あるいは実施しようとしている学校法人などに対して、安倍政権がより以上の便宜を図り、園児や生徒を通じて日本全土に国粋主義的な考えを広げていこうとしているのかもしれないという疑惑が膨らんできたからである。


 国会の証人喚問における籠池氏の証言をめぐって、28日に自民党の西村総裁特別補佐らは「偽証罪での告発も考えている」と述べた。

 国会の衆参両委員会を通さず、自民党が勝手にこのような見解を述べること事態が異常であり、一政党の国家機関の悪用である。

 安倍首相を侮辱したといって政府が一般人である籠池氏を証人喚問し、なおかつ客観的な反論証拠も示さずに、籠池氏の証言を偽証として告発するぞ、と戦前の不敬罪を想起させるような発言をしているのも異常である。

 安倍首相は皇族でもなんでもない。

 たしかに安倍首相の家系図をたどると、麻生太郎財務大臣天皇陛下、皇室、皇族とも親戚にあたるようだ。

 そのことを後ろ盾に、政府は「侮辱」という言葉を使って安倍政権を誹謗、中傷するような発言をした一般人を口封じしようとしている。

 これは不敬罪が存在していた戦前を想起させるようなやり方である。


 現在、「不敬罪」というものが存在する国はサウジアラビアや一部のイスラム諸国、タイ王国などで少数である。

 今「不敬罪」に近いものを挙げるとすれば日本では「名誉毀損罪」あるいは「侮辱罪」だという。
 
 政府が籠池氏の発言を安倍首相に対する「侮辱」罪として国会で証人喚問したことは、戦前の「不敬罪」となんら変わらぬ意図を持っているとしか思えぬ。

 こういうことがまかり通るならば日本という国は恐ろしいと思えてくる。

 政府にたてつけば、有無を言わさず国会か、警察に引っ張られるのだ。

 再び戦前のような、肉体どころか思想さえも束縛される暗黒のような日本になっていくのか。

 そのような日本がどんなものだったか、今の国会議員のどれほどが経験しているだろう。

 現場も知らず、ぬくぬくとした部屋で資料を広げながら、小田原評定のように物事を決め、現場を理解したつもりでいるのだろう。

 経験もせず、上っ面の美辞麗句だけに踊らされて、教育勅語を崇め敬い、一途に奔ってしまう。

 あれほど教育勅語国粋主義に心頭していた籠池理事長でさえ、補助金を騙し取っていたと疑われてしまうことを行っていた。

 ましてや国会議員の中に同じような人間が居ないと、果たしていえるだろうか。

 もし日本国民がすべてそのような思想におぼれてしまったならば、日本はまた戦前と同じ道を進むかもしれない。

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 今私の手元に、父が書いた一冊の日記帳がある。
 
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 背表紙には「昭和十一年 當用日記」とある。販売元はあの「博文館」。

 戦前の「博文館」がどのような会社であったか、知る人は知っている。 
 
 この日記帳は母と一緒に父の遺品を整理しているときに見つけたもので、母に尋ねると日記帳の存在は知らぬと言っていた。

 そのときはその日記帳に興味はなかったので母に預かってもらっていた。

 その後、母も他界して両親の遺品を整理するときに、この父の日記帳だけはどうしても捨てられなかった。


 父は昭和4年(1929年)満州にわたり、奉天というところで働くことになった。当時はまだ独身だった。

 満州で10年後、本土から母を呼び寄せて結婚し、家族は旅順という所に住むことになった。

 私たち家族はそれから日本が戦争に負けるまでの8年間、その外地に住み続けたのである。

 そのことについては前に記した

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                                                               日記帳の最初のページ
 
 そして両親の遺品を整理して20年以上も経ったあるとき、本棚の片隅に置いていた父の日記帳を手にとって読んでみた。

 もう70年以上も経っていた日記帳は少し乱暴に触ると、紙がボロボロになって落ちていった。

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表紙をめくると「昭和十一年」に関する事柄が目いっぱいに

 さらに手で破り取ったような跡が何箇所もあった。
 
 昭和22年に満州港から舞鶴港に引揚げてくるとき、持ち物検査で不審なものが見つかると船から下ろされてしまうので、そういう物は船べりからこそっと海に捨てるか、荷物の奥のほうに押し込んでいた、と母が言っていたのを思い出した。

 おそらくこの日記帳もソ連兵に見つけられぬよう、父が荷物の奥底に押し込んだのだろう。そして万が一見つかった場合にと、疑いをかけられる様な記述のあるページはすべて破りとったに違いない。

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次のページには皇室に関する事柄が記載されている 
この年の1月分の日記はすべて破りとられていて、2月分も一部が無くなっていた

 父がこの日記を書いたのは22歳のころ。

 青色インクの万年筆で書かれた父の文字は特徴のあるくせ字で、かつ当て字も多くてなかなか読み辛かった。
 
 虫食い状態でかつ日焼けしたような日記帳、それでもほぼ完全に残った日の日記を読むと、外地で働いていた当時の父の様子が目に浮かぶ。


 日記には具体的なことは書かれていないが、少し間違えば死という危険が満ちた日々だったことが行間から読み取れる。

 そしてそこには、死と隣り合わせの日々で「危急存亡の秋(ききゅうそんぼうのとき)」を過ごしているような感じさえする。

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226事件が起きたときの日記の記述

 昭和11年は「226事件」が起きた年である。
 父はそのことを詳しく記している。写真はその時の日記である。

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 たとえば昭和11年2月27日の日記には前日に起きた「226事件」について書いている。

 外地でも新聞は発行されていて、本土(日本)の出来事も当時の政権に不都合でなければ印刷され、翌日配布された。

 日記には「新聞の見出し大きく十一()、二()、二十六日の事件」とあり、さらに「今ぞ、内容(何ひとつ紙面に)書いてなし」とある。
 )内は参考のために追記した

 続いて日記には「岡田首相(即死)」とあるが、これは初期の新聞の誤報をそのまま信じたらしい。岡田首相は女中部屋に隠れ、難を逃れた。そのとき射殺された松尾大佐が岡田首相と容貌が似ていたために、岡田首相と間違われたという。
 
 日記にはさらに斉藤内府(即死)、渡辺教育総監(即死)、牧野〇内府(行方不明)、鈴木侍従長(重症)、高橋蔵相(負傷)とある。
(日記の記載そのまま、不明な文字は〇にて記載)

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 翌日(昭和11年2月28日)の日記には、上部の欄に「内閣総辞職、鈴木侍従長 高橋蔵相 (絶命) (死者六名)」とある。

 そして下の欄に

 「店に居て自動車の勉強をする」 (父は当時、軍車両の管理の仕事に就いていた)
 「昨二十六日の事件 後報大々的掲載さる 内閣総辞職 こうなれば 後継内閣も進んで働く人はなかろふ。日本という国はあぶない国だ? 皆が言っている」

 さらに次の行には

 「軍隊そうだ。?そう言えばわれわれルンペンのような者が一番幸福である。」とも記している。


 癖のある父の字、さらに当て字や「てにをは」の使い方に?な部分もあるが、気持ちはよく伝わってくる。

 本土の日本では国粋主義思想が浸透し、教育勅語が奨励され、ソ連兵や中国軍がいつ押し寄せてきてもおかしくない緊迫した外地で、一日も欠かさず書いた父の日記には衝撃的な記述が続く。

 私は外地で生まれたが、幼いころの記憶は全くない。しかし現地の空気を吸って生まれ育った。

 いつ死ぬかわからぬ毎日を過ごした父の日記を読んでいくと、あたかも自分が体験したような錯覚を覚える。

 この日記が書かれた時期と私が過ごした時系列は異なるが、父の日記から伝わってくることは実体験と同じことのように感じる。

 そしてこの日記を読むと、今の日本は1930年代の日本と何か似通ったキナ臭いにおいがするのである。

 それは森友学園の塚本幼稚園で行われていたこと、そしてそれらを賞賛する人間が少なからず現在の政治家の中にいたという事実から本能的に感じるのである。

 私たちが今までそういうことに気付かなかったのが悪いのかもしれない。

 もし多くの日本人がこれらの異変をこのまま看過するのであれば、日本という国が再び同じ過ちを犯してしまうというのは確かであろう。
 
 父がこの日記を処分しなかったのは、自分が体験した悲惨なことを後世へ伝えたかった、ということかもしれない。
 
 なかなか読み進まない父の日記であるけれど、続きは次回に譲りたい。